原発通信 81号2011/10/17発行
東京は“静か”に行われました。 「ウォール街を占拠せよ」と始まった運動が、先週土曜日、世界各地で10.15反格差行動が展開されたことはTVなどでご覧になったかと思います。私は当日、日比谷公園と、六本木に行ってきました。数時間前までの大雨ということや、準備不足ということもあってか参加者は非常に少なかったです。日比谷では、日の丸を掲げた数人がデモの最後尾についていました。反TPPです。六本木には児童ポルノ規制反対というゼッケンをつけて参加しているなぜか白ヘルメットをかぶった青年がいました。参加者の割には、報道陣や私服が多く、海外メディア(?)か、資材をもった外国人が目立っていました。帰りに、見上げた六本木ヒルズ、あれを打倒するのには…と思ってしまいました。反・脱原発と反貧困・格差、連動していかなければと思います。原発労働も、汚染されたものを食べざるを得ないのも貧困・格差と無縁ではありません。 九州電力のやらせ問題での真部社長発言、「あの人委員長ではもうないし」にすべて表れています。これが原子力マフィア=原子力村の中身です。あの薄ら笑い、万死に値します。と書いている方がばかばかしくなります。あの程度だったのだということです。 新企画「ドイツから」第2回あります。 浜岡に最大20Mの津波! 糸魚川―静岡断層も連動 石橋神戸大名誉教授によると、東海地震で日本列島を東西に分ける糸魚川―静岡断層も連動して動くと指摘しています。また、東大地震研の都司准教授は明応東海地震の分析で浜岡に15~20メートルの津波が押し寄せるとし、中部電力想定の2倍の高さとなっています。(毎日2011.10.14石橋氏糸魚川・静岡断層も連動 同 浜岡に20Mの津波) モンゴル政府、核処分場計画断念 モンゴル政府、国内での反対運動の高まりで原発の使用済み核燃料の一時保管・処分場建設の断念を決めたとのことです。2002年には、オーストラリアでも反対にあい、断念、失敗しています。さあ、ますます持って行き場がなくなりました。六ヶ所村、福島第1、そして各原発になる核燃料プールに置いたままになるのでしょうか。でもそこだって、数年のうちにいっぱいになるのです。(毎日2011.10.15モンゴル核処分計画断念) IAEA、政府の除染方針慎重すぎるだと! こんな程度でいいのかと思っていたら、IAEA、なんと、日本政府の除染方針に対して「慎重になりすぎており、経済的、時間的、作業する人の被ばく線量などとのバランスを考えるべきだ」と「助言」したそうです。命よりも、経済、お金が第一ということです。 そして、「特別な被曝を起こさないものは『放射性廃棄物』に分類しない」とも。なんでも頭に、「特別」だの「ある種」だのと付けると、何か言っているような気になってしまいますが、単にどうしょうもないから、え~い!何でもないものとする!というくらいの話です。でも話ですまないのが…です。そうそう、「ある種」と言えば、日本総研の寺島実郎、彼、よく「ある種○○」などと使うのです(何も言っていないと同義です)。要注意の男です!(毎日2011.10.15IAEA、除染慎重すぎると) Jヴィレッジには約4000立方メートルもの防護服などの廃棄物が溜まりにたまっているとのこと。東京都の焼却灰の埋め立てもみんな、この線に沿ってでしょう。(毎日2011.10.16廃棄物の山) 第2回 なぜ、日本人は静かで、ひとごとのように事態を受け止めることができるのか 福島原発事故は、時間が経つにつれ状況が悪化するのみならず、生命の危険を迫るものになっています。ドイツでも報道は少なくなりましたが、この間の経緯をキチンと観察している多数のジャーナリスト、専門家、学者等がいます。その人たちが定期的に貴重な記事、報告を書いています。 今日紹介するのは、観光分野の記事です。記者は直接日本、そして福島に赴きいろいろな人たちにインタヴューし、そこから彼なりの日本観を披露しています。一つの意見として何かを考える礎になるのではないかと思い、結論だけを翻訳して紹介します。 記事は、Frankfurter Allgemeine Sonntagszeitung,24.Juli 2011です。 記者がわからないのは、これだけの原発被害、生命の危険性のなかで、なぜ、日本人は静かというか、ひとごとのように事態を受け止めることができるのか、という点です。確かに、事故当初は、平静に混乱しないで事態に対応する日本人への賞賛がありました。ヨーロッパだったら、もう鶏小屋をかき回すようなもので収拾がつかないと、誰もが語っていたものです。その後の被爆規模と被害の大きさがわかるにつけ、日本人は何を考えているのかを実際に見極めてみたいというのが、この記事を書いた記者の意図するところであるように思います。以下は、一面を使った長い記事の結論部分の翻訳です。 誰からも非難めいた言葉が聞かれないと驚いて、次のように記事を締めくくっています。 「ここで再び、理解するのに困難なものがある。大災害にこれほど強烈に見舞われた人たちが、どうしてこんなに気軽に事態の成り行きに対応できるのだろうか。不満はどこに行ったのか? 自分に降りかかる宿命への怒りはどこにあるのか? そこで考えるのだけれども、恐らく、こうした見せかけの日本人の無関心さ・冷淡さに対する分かり難さが、観光客が遠慮するところとなっているのであろう。というのは、彼らが、日本というのは理解できない国と思い込んでしまうからである。日本という国を信頼できなくなるからだ。 このミステリーな国を移動しながら、正確な放射線量測定も福島原発のコンクリート詰め対策も、何ら変えるものはないだろうというような考えが頭をよぎってくる。そうではなくて、ただただ観光客に来てもらいたいだけのことなのだろう。何か目に見えない不安を、観光客に耐えて受け入れてもらいたいだけなのだろう-尊厳よろしく口を噤み、そして何もなかったかのように引き続き生活することによって」。 どうですか。こうしてドイツの友人から話しかけられれば、なんと答えればいいのでしょうか。 外国で言われることがすべて正しいということではなくて、世界の人たちの健康、食料、自然、すなわち生命を原発で破壊し、危険に晒しておきながら、その責任をどう取るのかということです。そのとき、自分の国以外の人たちの意見に耳を傾ける必要があると思うのです。(ここまで) 首都直下型地震で100万人ぐらい死んでも、この国は何も変わらないのかも T・K生さんからの報告を受けて、すぐ思ったのは、先週10月14日付毎日新聞夕刊に掲載された高橋源一郎氏(1951年生まれ、明治学院大学教授)へのインタビュー記事でした。野田首相の演説を聞き、高橋氏は言います。「野田さんが言っているのは、システムは全部温存します。みんなで仲良くやりましょう。官僚や東電も、悪意があってやっているわけじゃない。みんなの気持ちはわかるけど、東電も別に潰しませんよと。もしかしたら、首都直下型地震で100万人ぐらい死んでも、この国は何も変わらないのかも」と。そして、「この国はどこへ行くのかなどと考えず、自分が何をすればいいのか、何をしてあげられるかと考える。そういう人が多ければ変わるし、いなければ変わらないだけ」と(その記事のタイトルが「日本よ! この国はどこへ行こうとしているのか」ですので)。「こんなこと言ったら怒られる」という強迫的な思いが、自分を縛り、行動を鈍くするとも。 日本人の、この当事者感覚のなさは、どこからきているのでしょうか。日本は原爆を2発も落とされ、そして今回のフクシマです。福島第一原発は、日々収まり、「冷温停止」に向かっているような報道と、「原発事故?大したことなかったんじゃない」という「風評」です。何も変わっていないのに…。 「本当の冷温停止は遠い」 政府と東電は「冷温停止」という定義を、事故後、解釈を変えています。東電は福島第一の保安規定で「圧力容器のボルトがすべて締め付け」「冷却材が100度未満」などと定義しているのです。つまり、炉内の水は沸騰しておらず、圧力容器が密封され、放射性物質が外部に出ていかない状態ということです。しかし、保安規定の変更はないにもかかわらず、現在、どのように「定義」しているかというと炉の温度が下がり、「放射性物質の放出が管理」され、「(原発敷地内の)放射線量が大幅に抑えられて」さえいればいいのだと言っているそうです。つまり、「放射性物質は相変わらず出ていますが、どの程度かわかっているし(つまり管理されている?)、前よりは大幅に減っているでしょ」と言っていることと同義なのです。一方、注水が36時間停止になったら核燃料が再溶融するとも言っています。だから、前号80号でお知らせしたように、「海水注水訓練」を行っているのです。(東京新聞2011.10.17冷温停止は遠い) http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111017-00000029-mai-pol ▲上は毎日新聞の記事です。ただ発表を載せているだけですね。 【さらに東電によると、先月1~15日の原子炉建屋からの放射性物質の放出量は毎時約2億ベクレルで、事故直後(3月15日)の約400万分の1に低減。原発敷地境界の線量も法令基準以下となる年最大0.4ミリシーベルトで、経済産業省原子力安全・保安院幹部は「十分前倒しが達成可能」と判断した。】(引用) この現状が、「放射性物質の放出が管理」されているということなのでしょう。 教科書副読本、フクシマは前書きだけに この当事者感覚の無さ、教科書にも表れています。文科省が全国の小中学校・高校生と教員向けにつくった放射線教育の副読本、前書きで若干触れただけとのことです。「大気中や海中に放出されました」「~方々が避難することになり、~摂取・・出荷が制限されました」だと。まるで、人ごと。よく戦争責任を天災と同じに考えているなどといわれることがありますが、論理的に物事を考えるということを放棄した書き方です。ちょっと前、なぜか、リーマンショックあたりを境に言われなくなった(使われなくなった)言葉に「アカウンタビリティ」(説明責任)があります。さまに、それがない書き方の典型です。散々、「自己責任」などとほざいていた連中が、「自己責任」などということを忘れたかのようです。(毎日新聞2011.10.15放射能読本問題) 福島沖のプランクトンから高濃度のセシウム 東京海洋大学の調査です。食物連鎖の始まりです。(毎日新聞2011.10.16プランクトンから高濃度セシウム) 沖縄電力、小型原発研究中! 駄々っ子と同じ 沖縄電力の会長だった仲井間知事、福島の事故があっても目が覚めないようです。自分のところにないというので、2003年12月(当時、沖縄電力会長)から行っている研究を続行とのこと。まるで友達が持っているのに自分だけ持っていないと言って騒いでいる子どもと同じです。妄想のなかで生きているのでしょう。そして、沖縄を今以上に「原発交付金」でなどの交付金づけにしていくつもりなのでしょうか。電力会社の力、沖縄の知事選でも発揮したということでしょう。この人が普天間を言っているのです。(東京新聞2011.10.17沖縄電力が小型原発) 最終的には各自で考え、結論を出すこと 事故後、週刊現代で大きく取り上げられていたの、ご存知でしょうか? 84歳になる放射線影響協会研究参与の岡野真治さん・84歳です。自分でつくった計測器を車に乗せ、福島県の線量を測定して歩いた人です。一本筋の通った人、研究者です。記事の一読を。本も出したとのことです。(東京新聞2011.10.16計測が基本① 同 自ら行動を②) | ||